精神疾患も飲酒も麻薬も無い、音楽のかたまりのジェイムズ・ブッカーが紡ぎ出す音は、歓びと美しさに満ちていたに違いない。
この映画のなかで、様々なものを抱えてはいても、それでもなお彼のピアノはすばらしい。
ニュー・オーリンズでは誰もがこの人間離れしたジェイムズ・ブッカーを、畏怖と呆れを持って称賛する。現地で見たアラン・トゥーサンとの連弾Liveは生涯忘れない。
奇跡的なこの映画、BAYOU MAHARAJAHと監督、リリー・キーバーに感謝!
ニュー・オーリンズが生んだ名ピアニストの中で、一般的な知名度を得られずに多くのミュージシャンに天才と崇められたジェイムズ・ブッカーは、摩訶不思議なキャラクターでしたが、彼の演奏を聞けば必ずファンになるはずです。
ブッカーのドキュメンタリー映画ができたと最初に聞いたときはビックリするやら歓喜するやらで、そわそわしてしまいました。誰もが認める圧倒的なテクニックも去ることながら、その強烈な個性はまさに唯一無二。この映画は、そんな彼の華やかながらも破滅的な人生を見事に描き出しています。貴重な演奏映像だけでも見る価値は十分です。完成から10年あまり。遂に日本の劇場でそれを見られる喜びを噛みしめましょう!
観てよかった。
正直ブッカーのことをほとんど知りませんでした。でも彼がいわゆるころがるピアノの達人であり、その人生も、またころがるようにあっという間に終わってしまったんだなぁと。
天才の狂気と儚さを知れて、観てよかったです。
うぉぉぉ!僕がドクター・ジョンの教則ビデオで習ったピアノフレーズの数々が映画全編に渡って散りばめられている!!
そう、何を隠そうあのドクター・ジョンにオルガンの手解きをしたのはジェイムズ・ブッカー。
ニュー・オーリンズの音楽の歴史を10本の指で表現した鍵盤の魔術師。
彼の人生の混沌と音楽への愛情(と倒錯!?)は、まるでこのニュー・オーリンズという街をそっくりそのまま表しているよう。
全てのアメリカン・ルーツミュージックファン、いや、全音楽ファン必見!
ある時はファンキーにオルガンを操るビリー・プレストンを凌ぎ、
ある時はお茶目でゴキゲンに爆発、
でも恐ろしく切ないエルトン・ジョンを彷彿とさせる。
そしてニッキー・ホプキンス・・・。
いやいや誰よりも華麗なピアノ一音一音に込められた、
超絶なテクニックを超えたところにある魂の響き。
惚れて、惚れて、惚れてまうやろ。
フォンクなファッションも必見。
神さまから与えられた感性を自由な自然の中で表現した男こそジェイムズ・ブッカー。
ピアノプレイだけで無く歌ってる事の意味。この映画が日本で公開される事に感謝!
天使と悪魔が同居した男…Down the Road Junco Partner!!
ニュー・オーリンズ出身の偉大なアーティストは数多いが、日本において“ジェイムズ・ブッカー”の名前はあまり知られていないのではないだろうか。
本名ジェイムズ・キャロル・ブッカー3世。あのドクター・ジョンにオルガンを教え、彼をして「ニュー・オーリンズが生んだ最高の黒人、ゲイ、ジャンキー、片目のピアノの天才」と言わしめた孤高の天才ピアニスト。クラシックからジャズ、R&B、ロックなどのジャンルを横断する超絶テクニシャンであり、歌も達者なアーティストであるにもかかわらず、彼は薬物・アルコール中毒、同性愛、精神疾患など、多くの問題を抱えた人物でもあった。奇言・奇行の噂は枚挙にいとまなく、入所歴まである問答無用のダメ人間。だが、ひとたびピアノに向かえば、そのプレイは軽々とジャンルを超えた神々しいまでの圧倒的輝きを放つ─。その茶目っ気たっぷりなキャラクターからは破滅型人間に特有な悲壮感は微塵も感じられない。片目のハンデを逆手に取り、常に粋な眼帯を装着したルックスも彼の愛すべきチャームポイントのひとつなのだ。だが、誰にも言えない苦しみや悲しみを抱えた彼の音楽や演奏には、どこか切なさ、儚さを感じさせるものがある。
わずか43歳という短い人生を生まれ故郷ニュー・オーリンズに捧げた、この知られざるミュージシャンの生涯を、エモーショナルな演奏シーンをふんだんに盛り込み紐解いていく、エキセントリックな“ヒューマン”ノンフィクション。ハイライトになるような華々しいキャリアはここにはない。だが、“音楽が最高なら、それだけで価値がある”─本作は心の底からそう思わせてくれる映画だ。
1939年12月17日、米ルイジアナ州ニュー・オーリンズで牧師の息子として生まれる。彼は幼い頃から鍵盤楽器に興味を示し、父親の教会でオルガンを弾くようになった。
10代になったブッカーは次第にその頭角を現し、11歳で地元のゴスペルラジオ局でピアノを披露するようになる。14歳のときにはインペリアル・レコードでリトル・ブッカー名義で初のレコーディングを行い、また、同レーベルのスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始する。
1961年、ソロ名義のインストゥルメンタル・シングル「Gonzo」をリリース。これがスマッシュヒットとなり、60年代には主にセッション・ミュージシャンとして数多くのアーティストのレコーディングやツアーに参加した。当時彼がバックを務めたアーティストには、ウィルソン・ピケット、B.B.キング、ロイド・プライス、ジュニア・パーカー、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャードなど錚々たる面子がいる。
1967年、ヘロインの不法所持で有罪となり、アンゴラ刑務所に1年間服役。このため一時的に活動の中断を余儀なくされたが、出所後すぐにセッション・ミュージシャンとしての活動を再開。1976年には、ニュー・オーリンズのシーセイント・スタジオでファーストアルバム「ジャンコ・パートナー」のレコーディングを行った。
一方、ブッカーは地元のメイプル・リーフ、ティピティーナス、スナグ・ハーバーといったクラブへ常連で出演。またニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルにも参加するなど、ライヴ活動も積極的に行っていった。70年代後半にはソロでヨーロッパ公演も行い、各地で熱狂的に迎え入れられ、現地でライヴアルバムのレコーディングやリリースも行っている。
しかし、この頃からブッカーはアルコール中毒と麻薬中毒に加え、精神疾患を患い、体調を崩していった。演奏も調子の良いときと悪いときの落差が激しくなり、また奇言・奇行も目立つようになった。1982年のセカンドアルバム「Classified」のレコーディングの際には直前に倒れて入院する事態となったが、奇跡的にアルバムは完成した。だが、これが彼の生前最後のスタジオ作品となってしまった。
1983年11月8日、コカインの過剰摂取で倒れ、ニュー・オーリンズのチャリティー病院で死去。彼はひとりで救急車を呼び、車椅子で病院の救急治療室で診察を待ちながら息絶えた。死因はヘロインとアルコールの常習による腎不全、享年43歳だった。
ニュー・オーリンズを象徴する重鎮ミュージシャン。名盤『ガンボ』(72)でニュー・オーリンズ音楽を世界に広めた。本作でブッカーにオルガンを教わったと明かし、その実演とライヴで一緒に演奏した話を披露する。
現代のジャズ界を担うイケメンプリンス。幼い頃からブッカーにピアノを習い、可愛がられた。本作ではブッカーとの様々な思い出を語り、ブッカーのピアノ奏法を実演解説する。
ニュー・オーリンズを代表する名プロデューサー、作曲家。本作でブッカーのことを真の天才と称賛しつつ、彼にはミュージックビジネスの才が欠落していたと語る。
ニュー・オーリンズを代表するグループ、ネヴィル・ブラザーズのサックス奏者。本作でブッカーの演奏は川ではなく、海のようだったと称賛する。
アメリカの伝説的音楽プロデューサー。ブッカーの才をいち早く見抜き、彼を説得して、ソロ・デビューアルバム「ジャンコ・パートナー」(76)を制作した。
メープルリーフ・バーのオーナーで、ブッカーの盟友。ニュー・オーリンズでブッカーに演奏できる場所を与え、支援し、最後まで彼を見捨てなかったナイス・ガイ。
ハリー・コニックJr.の父親でニュー・オーリンズ地方検事も務めた地元の名士。ブッカーとは家族ぐるみの付き合いで、息子のピアノの家庭教師をさせる代わりに、彼の刑の軽減や相談事に尽力した。
ニュー・オーリンズを拠点とする映画製作者。
ノースカロライナ州ワタウガ郡出身。ジョージア大学卒業後、メイン州ロックポートの国際映画テレビワークショップで映画製作を学ぶ。ケンタッキー州ホワイトズバーグのコミュニティアートコレクティブで教鞭を執った後、ニュー・オーリンズに移住。バーテンダーをしながら、2007年夏、国土安全保障省の家族拘留政策を題材にした短編映画「T.Don Hutto: America's Family Prison」の共同監督を務める。2008年には、メキシコ湾岸地域におけるメディアリテラシーの向上を目指す女性主導のメディアコレクティブ「New Orleans Video Voices」を共同設立した。
初の長編ドキュメンタリー映画『Bayou Maharajah』は2013年のSXSWでプレミア上映され、オックスフォード・アメリカン・アワード最優秀南部映画賞とルイジアナ人文科学基金の年間最優秀ドキュメンタリー賞を受賞。長編2作目となる『Buckjumping』は2018年のニュー・オーリンズ映画祭でプレミア上映され、デヴィッド・バーンらに高く評価された。他にも、連邦政府による移民家族収容政策、ガザ地区の刑務所の状況、南部の文化や食文化など、様々なテーマを扱った作品の制作や、ビヨンセ、アーケイド・ファイア、プリザベーション・ホールのプロデュースなども手掛けている。
ジェイムズ・ブッカーという名前を初めて聞いたのは、私がまだニュー・オーリンズの第9区にある安酒場ヴォーンズでバーテンダーをしていた時のことでした。昼間のシフトは空いていたので、時間をつぶすためにジュークボックスをかけていました。ブッカーの曲がかかると、客たちは酒に酔いしれ、ジャズフェスでピアノ・ポープの衣装を着たブッカーを見た時の話や、フレンチ・クォーターで午後に上映されるサイレントポルノ映画のサウンドトラックを即興でソロ演奏していた時の話、誰かがコカインを持ってくるまで二度と弾かないと宣言してキャップガンを頭に突きつけた時の話などを語り始めました。古びた肖像画や安らかに眠る張り紙、埃っぽいウォッカの瓶が散乱するヴォーンズには、星があしらわれた眼帯をした鹿の剥製の頭が飾ってあり、ブッカーについて語る人は皆、彼の名前を口にするたびに、その鹿の頭を指さしました。長い間私は、彼らは酔っ払って作り話をしているに違いないと思っていました。彼らが語る人物像はあまりにも奇妙で、真実とは思えなかったからです。ニュー・オーリンズの住人で、ファッツ・ドミノと同じくらいラフマニノフを演奏しそうな男? リトル・リチャード、アリーサ・フランクリン、レイ・チャールズ、リンゴ・スターと共演したのに、地球上で誰も知らない男?そして、どんな会話も「彼はとんでもない天才だった」で終わるようでした。
これが私のジェイムズ・ブッカーとの出会いでした。しかし、彼について知れば知るほど、話はますます興味深いものになっていきました。彼は、当時ニュー・オーリンズの地方検事だったハリー・コニック Sr.に気に入られるため、ハリー・コニック Jr.にピアノのレッスンをしていました。ブッカー自身は有名な麻薬常用者だったにもかかわらずです。彼はドクター・ジョンにハモンドオルガンの弾き方を教えました。作家のハンター・S・トンプソンは彼の曲「ゴンゾ」が大好きだったので、自分の作風をその曲にちなんで名付けました。しかし、彼に関する情報はネットではほとんど見つかりませんでした。彼のアルバムは当時すべて廃盤で、海賊版さえ入手困難でした。
ジェイムズ・ブッカーの人生は、20世紀の偉大な社会政治運動の軌跡を辿っています。彼は1950年代のニュー・オーリンズの伝説的なR&Bシングルでピアノを演奏し、ニュー・オーリンズのラジオ放送に初めて参加したアフリカ系アメリカ人ミュージシャンの一人でした。
彼はまた、鉄のカーテンの向こう側で活躍した数少ないアメリカ人のソロアーティストの一人でもありました。彼のスタイルは、ジャズ、R&B、ソウル、ゴスペル、クラシック、そしてニュー・オーリンズのリズムをシームレスに融合させ、ジャンルの枠を超えたサウンドを生み出しました。
彼に触れた人々は皆、当時どれほどフラストレーションを感じていたとしても、ブッカーのことを温かい心と笑顔で覚えています。
ジェイムズ・ブッカーは、何よりもまず、アメリカで最も優秀で革新的なミュージシャンの一人でした。しかし、片目で薬物とアルコールの問題を抱えるゲイで双極性障害の黒人男性であるブッカーが、メインストリームで活躍することは決してありませんでした。しかし、それにもかかわらず ― あるいはそれゆえに ― 彼の音楽はショパンを凌駕する複雑さで、ピアノの可能性の限界を押し広げています。私がブッカーに惹かれたのはまさにこの複雑さでした。私は、彼がいかにして人々に許容されるのか、そして彼の音楽がそれをどのように可能にするのかを知りたかったのです。
私は、ブッカーの多くのニックネームの一つである『バイユー・マハラジャ』を、彼がライヴで演奏しているような構成にしました。シームレスに異なるテーマの間を行き来し、全く予測できないような構成に。彼は常に瀬戸際にいながら、聴く者すべての心に触れ、まさに魔法のようなパワーを発揮していたのです。